認知症になると世界はどう見えるのか
家族や親しい人が認知症になったら、どう接したらいいでしょうか。
これを考えるには、想像力が必要ですよね。
認知症の人の気持ちはどんなか。
自分だったら、どう接してほしいか。
想像するのに助けになりそうな小説があります。
マルセル・プルースト『失われた時を求めて』
井上究一郎 訳
1994年 ちくま文庫 全10巻
鈴木道彦 訳
2013年 集英社文庫ヘリテージ 全13巻
角田光代・吉川泰久 編集
2015年 新潮モダン・クラシックス
今から100年ほど前にプルーストが書いた小説『失われた時を求めて』
虚しい日々を送っていた主人公は、母の入れた紅茶とマドレーヌを口にした時、その香りに昔を思い出します。
紅茶の香りに昔を思い出す。
この体験には共感する人も多いのではないでしょうか、
香りが記憶を呼びさます体験。
主人公は、紅茶に浸したマドレーヌを口にして記憶を呼びおこします。
「溝の入った帆立貝の貝殻で型をとったように見えるプチット・マドレーヌ」とあります。
「やがて私は、陰鬱だった一日の出来事と明日も悲しい思いをするだろうという見通しに打ちひしがれて、何の気なしに、マドレーヌのひと切れを柔らかくするために浸しておいた紅茶を一杯スプーンにすくって口に運んだ。・・・〈中略〉・・・そうしたすべてが形をなし、鞏固(きょうこ)なものとなって、町も庭もともに、私の一杯の紅茶から出てきたのである。」(高遠弘美訳・光文社古典新訳文庫)
香りと脳
匂いの刺激は、脳に直結し、情報を総合的に処理する眼窩前頭皮質に届く以前に、記憶につながる海馬や、情緒につながる偏桃体に届くそうです。(北海道医療大学心理科学部臨床心理学科論文より)
ナルホド! それで、紅茶の香りが記憶を呼び覚まし、懐かしくものさびしい気分になるのですね。
そう言えば、情緒的は、ものさびしさといつも一緒だと思いませんか?
ああ、懐かしい!
二度と帰らない青春!
これはこれで、別に考えてみたいと思いますが、私たちは遅かれ早かれ、すべての瞬間が二度と還らないはかないものだと知ります。
それを知って、輝いていた一瞬の体験を眺めた時に起こる心の動きを情緒と言うのではないでしょうか。
認知症になったら、香りの刺激に反応することもないのでしょうか。
記憶の再生ができないということは、出来事を思い出さないわけですが、その時、香りが呼び起こす情緒的な気分も感じないのでしょうか。
認知症の気分は?
認知症が進むと家族も認識できないそうですが、その時、本人はどんな気分なのでしょうか?
記憶の再生がすっかり止まってしまった状態を想像するのは難しいです。
でも、本当に理解するためには、想像力を限界まで駆使して、少しでも実感する必要があります。
私が初めて、認知症の人の気分を実感することができた描写が『失われた時を求めて』の中にあります。
作者は、夜中にふと目覚めた時、いえ、目ざめかけのホンの一瞬、自分が誰で、ここがどこなのか、頭の向きも分からないその一瞬を、時間の顕微鏡とでも呼びたいように細かく丁寧に描写しています。
「・・・〈前略〉真夜中に目覚めたとき、自分がどこにいるか認識できない。最初は自分が誰かということすらわからないのだ。私のうちにあるのはただ存在しているという、もしかしたら動物がもっとも深い部分でその震えを感じているかも知れない、単純きわまる感覚だけである・・・〈中略〉そのとき、記憶ーと言って、今いる場所の記憶ではなく、かつて暮らしたことのある場所やいたかも知れない場所の記憶ーが、ひとりでは脱出できない虚無から私を引き上げるために訪れる天の救いのように私の内に立ち返ってくる。」(既出)
これを読んで、私は初めて、認知症の人の気分を実感することができました。
記憶が助けに来てくれるまでの孤独、この作者が「虚無」と表現している拠りどころのない空白を想像することができました。
いいえ、白状します。
この空白を体験した一瞬を思い出したのです。
はい、私も体験しています。
何か目的があって階段をおり、別のことに関心が移り、さあ、目的を果たそうと思った瞬間、自分が何をしにきたのか頭の中が真っ白になったことがあります。
その時は、頭の中は空白で、私自身とやっていたこと、やろうとしていたこととの関係がすっかり見えなくなりました。
他の物との関連性を見失ってしまい、自分がポッカリ宙に浮いている気分でした。
孤独で不安でした。
落ち着いて、落ち着いて、と自分に言いながら、1分前にやっていたことを思い出し、その時はなんとか常態を取り戻すことができました。
時間にすれば短い一瞬のできごとだったかもしれませんが、あのまま思い出すことができなかったら・・・
ずっと????、とハテナマークの連続で、思い出さないのですから、それまでのできごとを誰とも、自分自身とさえ共有できません。
孤独と不安のなかに閉じ込められてしまうのです。
認知症の人との接し方
誰でも、いつ認知症になるか分かりません。
認知症は誰にとっても他人事ではないのです。
だから、認知症の人にたいして何ができるか、ということは、自分が認知症になったら何をしてほしいか、ということと同じです
☆普段の人間関係は記憶に基づいている
家族であれ、友人であれ、私たちが家族だ、友人だと知っているのは、今までのともに過ごした時間、共通の体験があって、それをお互いが了解しあっているからですよね。
私たちの関係は、過去を共有し、それを記憶しあっていることで成り立っています。
記憶を失えば、それまで通りの関係は、お互いにもてなくなります。
突然、相手を理解することも信頼することもできなくなり、今までの家族や友人を見失ってしまいます。
大切な人が認知症になり、こちらのことが誰だか分からなくなってしまったら、それはショックですよね。
どう接していいか分からない上、いっしょうけんめい働きかけても思うような反応を見せてくれないと、だんだん足も遠のきがちになるかもしれません。
今まで慣れ親しんだ方法が通じなくなっただけで、どうせ何も分からないんだ、感じてないんだ、と思い込んでしまいます。
しかし、ここで思い出したいのは、認知症の人が何も感じなくなったわけではないということです。
記憶の再生スイッチが入らなくなっても、脳の他の部分はちゃんと働いてます。
香りは感情を呼びおこす偏桃体にも刺激を与えています。
☆ 新しい関係を生み出そう
過去にしがみつく関係は終わったかもしれません。
でも、現実にあるのは過去ではなく、現在と未来です。
だから、認知症の家族や友人とは、今日、初対面の人として、新しく心地よい体験を共有してはどうでしょうか。
香りが感情を刺激する力があるのなら、良い香りと共に、楽しい瞬間を共有してください。
明日、それを覚えていなくてもいいのです。
せっかくの新しい時間を、良い香りと共に楽しく過ごす。
毎日が新しい!!
自分であれ相手であれ、認知症と共に生きるとは、その時その時を新しく生きることだと思います。
香りには、認知症の記憶の扉を叩く力もあるかもしれない
全くの素人の希望的観測ですが、
香りが、記憶の海馬に届くと同時に、情緒の偏桃体にも届くのなら、認知症の人にいろいろな香りをかいでもらい、情緒的体験のチャンスを提供する価値はあるのではないでしょうか。
開かなくなった記憶の扉、でも、その奥の思い出の数々には、香りがしっかりしみ込んでいるはずですから。
私の香り体験はこちらです→ 紅茶の香りに昭和が漂う