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昭和半ばの市民生活の一記録 思い出すままにⅠ 小学一年の思い出(3)

投稿日:2020年2月3日 更新日:

小学一年の思い出3

小学一年の思い出2 のつづき

その後、この出来事がどうなったかは、全く覚えていない。

というより、家に入った時点で解決だった。

母は厳しかったが、済んだことをいつまでも言う人ではなかった。

 

済んだ?

教育的効果があがったということなら、残念ながら全然済んではいない。

 

叱られたワケを、簡単に言うと、私が嘘をついたことがバレてしまったのだ。

 

妹をおぶって、綿の入ったネンネコに袖を通しながら、母が言った。

「学校へ行って、○○先生に、母が来るので待っててくださいって言って」

 

晩秋の夕暮れは早く、午後四時半ごろになると、もう、薄暗かった。

 


かまくらにゃんごろうさんによる写真ACからの写真

坂道の中腹にあったわが家から学校へ行くには、切り通しの石段を五十段ほど登らなければならないのだが、石段の両側には深い森が覆いかぶさるように迫っていて、ホーホーとフクロウが鳴いている。

石段の下まで走っていった私は、上を見ないようにしながら石段に一歩、二歩、足を、・・・掛けたか掛けなかったか・・・、怖くて怖くて、足がすくんでしまったのだ。

 

駆け戻って家の横まで戻ったものの、やっぱり行かなくちゃ、ともう一度引き返し、と繰り返しているうちに、息を切らしながら母が追いついてきた。

「言ってきた?」

母は、こう言うなり、私の手をぐいと引っ張って石段を登り始めた。

 

学校の校舎の入り口で、母は出てきた小使いさんに、取次を頼んだ

 

ホッ!

これで役目は終わった、と思ったのは甘かった。

 

「〇〇先生は、今日はお休みですよ」

 

母は、また私の手を黙ってグイッと引っ張ると、家とは反対側の校門から外へ出た。

すごい速足で、私は片手を引かれながら、前のめりに小走りでついて行った。

足を止めたのは、枯草の空き地の中だった。

 

この出来事が私の人間形成に教育的効果をもたらしたとは、残念ながら、全く言えない。

終わり

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