映画「25年目のただいま」にみる人生に必要なもの
どうして自分の人生はこんななの?
自分は幸運とは縁がない、と思っているなら、サルー症候群かも。
映画「25年目のただいま」の主人公、サルーもそんな一人でした。
(2017年オーストラリア、アメリカ、イギリス合作)
これは実話です。
5歳のときに迷子になり、孤児院に入れられた主人公サル―は、運よくオーストラリアの夫婦に養子として迎えられ、恵まれた環境で教育をうけます。
キャンベラのホテル専門学校にいるとき、グーグル・アースで世界中の場所を探せると知り、かすかな手がかりと記憶を基に、根気強く自分の故郷を探し出し、家族との再会を果たします。
25年ぶりの帰宅となったわけです。
これは事実で、2012年の出来事です。
故郷にこだわった理由
はた目には、そんなに苦労して過去を探さなくても今が幸せならいいのに、と思えるかもしれません。
でも、サルーは、ずっと不幸な気持ちで、探さずにはいられませんでした。
オーストラリアの家にはもう一人養子の兄がいるのですが、性格も態度も全く違い気が合いません。
育ての母から、「兄弟なんだから」と言われた時、「背景も過去も違うから他人だ」というようなことを言って精神的に不安定な兄を拒絶し傷つけてしまいます。
その時、実はサルー自身が孤独で傷ついていたのです。
育ての両親には感謝しながらも、「本当は他人」がつきまとっていたのですね。
養子にもらわれてからずっと、サルーは、一種のコンプレックス、引け目のような居心地の悪さを感じていたのかもしれません。
育ててくれている母親に向かって、「ママに本当の子供がいればよかったんだ」と言う場面もありました。
アイデンティティの喪失
サルーは血のつながりを問題にしていたのではありません。
「背景や過去」と言っているのは、サルーが精神形成を始めた故郷での生活のすべてを指しているのです。
これは、流行の言葉で言うならアイデンティティということでしょう。
アイデンティティという言葉は、日本語にはありませんでした。
そういう意識がなかったからです。
英和辞書を引くと「自己同一」という私には理解不能な日本語が当ててあります(苦笑)
しいて近い日本語を探せば「帰属意識」とでも言えるでしょうか。
日本はもともと農村中心の村社会なので、人は生まれた時から村の一員、家のモノでした。
わざわざアイデンティティを確認する必要などなかったのでしょう。
逆に、当たり前の集団から切り離される村八分という「アイデンティティはく奪」の恐ろしさはありました。
映画の主人公サルーの場合も、インドの大家族の一員であることが存在の前提になっていたと思います。
その前提が突如消え、知らない街をさ迷い、怖い思いをし、孤児院に入れられ、結局よその子供になるしかありませんでした。
サルーは、アイデンティティはく奪を体験したのです。
精神的によって立つ足場をはずされてしまったのです。
養子斡旋のソーシャルワーカーに、サルーが何度も、「お母さんは僕を探してない? お兄ちゃんは?」と確かめる場面があります。
ソーシャルワーカーは首を横に振りました。
サル―は、すっかり自信喪失ですよね。
この気分を想像してみていますが、難しいです。
アイデンティティにかかわる体験談
サルーは孤児院に収容される前、カルカッタの繁華街(?)でヒトサライの手をすり抜けて必死で走って逃げました。
この場面をみて、おお!私の記憶がフラッシュバックしました。
実は私も、子供の時、年末の人混みの中で、ヒトサライに連れていかれそうになったことがありました。
行き交う大人たちの谷間に埋もれて、見えない相手にグイグイ左手を引っ張られ、脚はもつれ大人のおなかやお尻に顔をぶつけながら、「おかあさ~ん!」と必死で叫びました。
喧噪のなかから母の私を呼ぶ声がひときわ高く響き、私は大声で「おかあさーん」と応えて、声だけのやり取りが何回あったか。
その間にも、私はどんどん母とは反対側の方に引きずられていきます。
もうだめか、と思ったちょうどその時、周囲が騒がしくなり、私の左手がふっと軽くなりました。
この出来事の直前も直後も、全く記憶にありません。
この場面だけがフラッシュバックで出てきます。
崖っぷちで足を踏み外しそうな気分です。
記憶というより、トラウマと言った方がいいのかもしれませんね。
昭和20年代前半の商店街の賑わいは、今のアメ横なみだったと、私には思えます。
大勢の人がいるのに、誰もが無関心。
誰も気づいてくれない。
大勢の人の中で、自分の存在が限りなく小さくなって、今にも消えそうでした。
あの時の、「もうだめか」の気分は、サルーと共有できるものかもしれません。
アイデンティティ喪失の危機を感じたのでしょうか。
アイデンティティは記憶から
意識してもしなくても、言葉があってもなくても、自己の拠りどころが人間には必要です。
そして、その拠りどころとなるのは、自分がしっかり何かに結びついているという帰属意識、アイデンティティです。
この感覚を私たちが覚えるのは、生まれてからの家族内、コミュニティ内での人間関係の記憶の積み重ねです。
そして、その記憶には、場所も必要です。
村社会がアイデンティティを気にしなくていいほど帰属意識を共有できるのは、しっかりと土地に根差した暮らしをしているからではないでしょうか。
体験には「いつ」、「どこで」、という時と場所が結びついています。
時と場所とに裏打ちされた体験の記憶がつながらないと、私たちは自分を見失ってしまうようです。
記憶と人生
場所と時とを伴った体験の記憶が現在まで続いていれば、私たちは、安心して、次の新しい体験に本気で向き合い、人生を作っていくことができます。
でも、それが途中で途切れていると、次には進めません。
サルーが安心して自分の人生を始めるためには、途切れた記憶をつなぐ体験が必要でした。
それが帰郷だったのです。
サルーが故郷で、母と妹、親戚との再会を果たした時、サルーだけではなく、家族みんなの人生が、長い停滞から、再び動きはじめたにちがいありません。
サルーも、やっと落ち着いて本気で、育ててくれた両親とも良い関係を築くことができました。
映画の最後に、サルーは言っています。
「ママ(育ての母)は、やっぱり僕のママだ。」
この原作者の後日談によれば、ビジネスマンとしてオーストラリアに暮らしながら、インドの生みの母に家を建て、何度も訪問しているとか。
自分を確信し、自分の人生をしっかり生きることができるようになった時、私たちは、周囲の人や社会とも誠実な安定した関係を築くことができるのでしょう。
その逆ではないのですね。
人生に必要なもの
ポイントは、自分を信じるということに尽きます。
子供のころから安定した環境で成長できた人はラッキー、比較的簡単に、自分を信じられます。
つまり、それなりの自信が持てる訳です。
でも、残念ながら、理想の環境ではなかった人はどうしたらいいか。
ひどい環境にもかかわらず、今、ここまで来た自分のすごさに気づけばいいんです!!
自分の中に力があった証拠ですよね!!
人の悩み、心配は、過去のことか未来のことに向けられていて、今この瞬間を忘れている、ってよく言われます。
今、ここに居る自分こそ、一番確かな、信じるべきものなんですね。
どんな環境でも、どんな過去でも、自分自身が自分の拠りどころとなってから、自分の人生をつくることができるのです。
なお、この映画は、アマゾンプライムで無料で観られます。
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