家族で一緒にテレビ番組を観ていました。
「あれ、これ前も観たね」と私が言うと、
「うん、さっきの場面でそう思った」という家族の返事。
ナルホド、再放送をまた一緒に観てるんだということが判明。
でも思い出す場面が違ったので、再放送に気づくタイミングが違いました。
私が思い出す場面があったからよかったものの、もし、思い出す前に番組が終わるなり、テレビを消すなりしていたら、家族と私では理解が違ったままになったでしょう。
このささいな食い違い、人生にとってどうでもいいことのようですが、これが、もっと大事なことに関してだったらどうでしょう?
記憶の個人差
記憶力が、人によって差があることはみんな知っていますよね。
よく覚えている人と、覚えていない人がいて、簡単に、頭がいい人と悪い人と呼んだりしてます(笑)
それから、同じ一人の人でも、覚えられるものと、覚えられないものがあると、向き不向き、とか、好き嫌い、とかで片付けています。
すると、記憶力と記憶できる内容とは別物のように聞こえます。
記憶の容量と質と言い換えてもいいでしょうか。
この二つが別物なら、もうキャパの少ない脳はあきらめた方がいいということになります( ;∀;)
上質の内容だけを覚えるようにして、余計なことは覚えないとか・・・
こうなると、くだらない情報は排除しなければなりませんが、くだらない情報はいくらでも覚えちゃったりして(笑)
(実は、くだらない情報って何をさしているのか分からず言っています)
記憶に関して、科学的分類はさておき、実は、記憶力は内容と無関係ではないと思えます。
第一、内容と無関係な記憶力の大小なんてあるのでしょうか。
人間の記憶力を、〇ギガとかって、数値化して測るのは聞いたこともありません。
記憶の個人差は、記憶する内容の違いからうまれているのではないでしょうか。
得意なことなら覚えられるっていう現象です。
人は何を記憶するの?
ここでちょっと面白い情報です。
行動経済学という新しい研究分野の講義をユーチューブで聞いたのですが、
生きてる私たちにとって、自己には二種類あるというのです。
(”the Riddle of Experience VS. Memory” by Daniel Kahneman)
リアルタイムでライブに反応している「経験している自己」と、それを覚えている「記憶する自己」。
これを、私の体験に基づく言葉に置き直すと、「現実の出来事の中で感情を伴って行動している自分」と、それを「眺めている自分」のことだと言えます。
この自分の二面の働きによって、一つの経験が、経験している最中と、後で思い起こすときでは評価が違ってくるのです。
経験している最中は、嬉しかったり、こわかったり、腹が立ったりと感情が動いています。
その時間が長いかどうかは、重要です。
楽しい気分を長く味わうことができれば、それはいい体験と感じますよね。
ツラい体験が長ければ悲惨です。
ところが、同じ経験を後になって評価する時には時間の長さはほとんど意味をもちません。
意味をもつのは、出来事の変化や重大性、それからその体験の終わり方なんですって。
終わり方がよければいい体験、悪ければ悪い体験として、後になって思い出すそうです。
人は物語を記憶する
経験の記憶が、経験中の気分ではなく、経験した事実の変化、重要性、そして終わり方によってつくられているということは、経験を一連の出来事、始まりと終わりのある一篇の物語として理解しているということではないでしょうか。
とすると、記憶には理解が必要のようです。
ナマで体験している自分は理解より先に実感しています。
言い換えるなら、「体験する自己」は感情的反応をしています。
それに対し、「記憶する自己」は、考えて反応しているといえます。
このことから言えることは、どんなに生々しい体験でも、それが記憶として思い出せるようになった時には、生々しさは消えているということです。
30年前の母の葬儀に友人が、「10年経てば仏になるからね」と慰めてくれましたが、このことだったのですね。
その空虚感はいつか超えられるよ、ということでした。
確かに、今はあのときより母を近く感じている気もします。
そして、記憶にとどまった体験は、ナマの体験とは違うものになっているのです。
元の体験を昇華したと言ってもいいでしょう。
理解を超えた体験は記憶できない
体験がそのままでは記憶に残らないということが分かりました。
さらに、物語として理解できない体験は、記憶されないことになります。
記憶に残らない体験には二種類あります。
感情も動かないようなどうでもいい体験と、感情が反応しても理解できない体験です。
トラウマは、感情的反応がとても強かった体験が、理解できないまま、条件反射的に感情だけを再生するのではないでしょうか。
激しいショックをもたらした体験が、物語として理解できれば、生々しい感情も記憶として昇華できるのかもしれませんね。
体験も記憶も個人的なものだった
家族と私は別の人間です。
だから、一緒に同時の場にいても、経験していることは違います。
その経験にたいする感情の動きも違います。
まして、それを記憶するための理解はさらに違います。
だから、同じ番組を一緒に観ていても、思い出す場面は違って当然だったのです。
「なかったという人と、あったという人がいたら、それはあったのだ」という論法も一理はありますね。
家族が「再放送だ」と言ったら、私が思い出せなくてもそうなんですね。
でも、勘違いもないとは言えません。
大事なことの判断を記憶だけに頼るのは危険だ、ということは覚えておきたいです。